2022年1月21日(金)の講座
時 間:午前10時~12時
テーマ:利晶の杜にて企画展「与謝野寛・晶子夫妻の旅」観覧
講 師:矢内一磨(やないかずま) 堺市博物館学芸員 / 日本文化史家
利晶の杜に現地集合。観覧前に講座室にて、矢内学芸員から利晶の杜と企画展の説明を受けました。
「千利休と与謝野晶子という二人の偉人は、生きた時代は全く異なるけれど、堺という同じ空間を生きた。この二人を入口にして堺という地を学んでもらいたい」というのが利晶の杜のコンセプトだそうです。
「ほかの名所、旧跡に行っても、同じ時間を生きることは出来ないが、同じ空間に立って当時に思いをはせることは出来る」。
矢内学芸員の講義は、今更ながらものの見方のひとつを教えていただきました。
千利休茶の湯館を入ってすぐにオランダ船「リーフデ号」の模型があります。愛用した茶の道具より先に帆船の模型を持ってきたことからも「利休を育んだ堺」を前面に押し出していることがわかるそうです(矢内学芸員談)。
晶子の生家は「駿河屋」という和菓子屋でした。父親は新しいもの好きで、和洋折衷の店構えにしました。継母は始末(堺の商人の文化)の権化のような人で、源氏物語のきらびやかな世界を知る晶子は、継母が苦手だったそうです。
左は当時の駿河屋の店構え、右は晶子の愛用の品です。
企画展「与謝野寛・晶子夫妻の旅」の一部、北海道旅行(昭和6年)です。
夫妻は、講演会などに招かれて全国を旅しました。その土地でしか感じられないものを歌に詠んでいます。
飛行機も新幹線も無い時代、北海道から四国、九州まで広範囲にわたる旅は、決して楽なものではなかったでしょう。
私たちの班は、近くの商店街にある昔ながらの洋食屋さんで昼食を食べ、利晶の杜に戻る途中で「晶子の生家跡」に寄りました。
「海こひし潮の遠鳴りかぞへつつ少女となりし父母の家」の歌碑がありました。
今では幹線道路の側ですが、かっては大阪湾が近かったと言われています。
時 間:午後1時~3 時
テーマ:利晶の杜から南宗寺まで歩く
講 師:陸奥賢(むつさとし) 観光家 / コモンズ・デザイナー / 社会実験者
千利休屋敷址
新型コロナウィルスの感染拡大により、昨日(1月20日)から、堺の観光ボランティアガイドさんの活動も休止しており、残念ながらここ千利休屋敷址も閉鎖されていました。
今の世の中においては、お茶は飲み物、けしは「けし餅」などの甘味として食しますが、戦国時代においては、お茶は「寝ずの番」などの為の興奮剤、けしは戦さの後などの異常な興奮を沈める鎮静剤として、戦の必需品だったそうです。
住吉大社宿院頓宮
住吉大社の御旅所(神が巡行の途中で休憩または宿泊する場所)として設置された。頓宮とは仮の宮、一時的な宮のこと。
(Wikipediaより)
顕本寺
歴史に記されていない堺幕府という政権を樹立した三好元長が自害したお寺で、堺幕府の終焉地となりました。
碑は全く関係なく、高三隆達(隆達節を生んだ)の顕彰碑。「君が代」が遊郭のラブソングとして歌われていたという興味深いお話しを聞きました。
堺市立少林寺小学校
前身校・宿院小学校の卒業生である与謝野晶子の歌碑が設置されています。
南宗寺
最初の天下人とも称される三好長慶が、父・元長の菩提を弔うために開山したと言われています。
境内には三好一族の供養塔、千利休一門の供養塔があります。他に、大坂夏の陣で討ち死にしたという徳川家康の伝説の墓があります。元々の墓はみすぼらしいものですが、松下幸之助さんらが支援して調査した後に作られた墓は立派なものでした。それを見たら、にわかに伝説が信憑性を帯びて聞こえるのは俗人のせいでしょうか?
(写真撮影禁止のため内部の写真はありません)
南宗寺にて本日の講座を終え、希望者のみ南宗寺を拝観しました。
陸奥先生は、終始淡々とした語り口ながら興味を途切らせない内容で、とても楽しい街歩きでした。
お二人の先生、有り難うございました。
皆様、お疲れ様でした!
(担当:N)