2022年2月4日 府民カレッジ講座 堺東生協会館         「トマトチャンホール」にて

午前:中世日本の喫茶史と堺の喫茶 ―堺発掘の大発見―

        株式会社つぼ市製茶本舗 代表取締役 谷本 順一先生

午後:ちょっといい旅 ―大阪堺市海岸通りー

        明治建築研究会代表 柴田 正巳先生


中世日本の喫茶史と堺の喫茶 ―堺発掘の大発見―

はじめに

つぼ市製茶本舗は、最初は「やま市」という商号で、南旅篭町に店を構えていたが、新在家町のかん袋(くるみもちで有名)の前に引っ越しした。

戦争のために、高石に移ったが、今は神明町の駅前で古民家をリノベーションして茶作業所を持つ。現在では、近代的な工場で製茶を行っている。

つぼ市製茶本舗のティスティングは大阪で、12を競う地位にある。目利きのブレンダーが腕に選りをかけてティスティングを行っている。ちなみに、現在では、いろいろな産地のものをブレンドすることが一般的である。それはひとつに、一年中を通じて、同じテイストを保つためでもある。

 

茶寮 つぼ市製茶本舗 堺本館 | つぼ市製茶本舗 (tsuboichi.co.jp)

 

茶の栽培に関しては、次のようなエピソードがある。

堺の商工会議所は、日本で3番目に設立された。明治時代の堺の人が、遠州の静岡で茶畑を開墾するとき、茶栽培の技術を教えたと伝わる。

 

中世の喫茶文化が確立されたのは京都であるが、堺の先人が、その文化を伝えようとして、奈良や京都で育まれたものである。

第一章 現在のお茶文化と飲用状況

現在の日常の中で、お茶はどのような位置づけにあるのだろうか?

配布資料によると、堺では、お茶よりもコーヒーの方が多く飲まれている。

また、京都では、コーヒーの消費量が日本一となっている。お茶よりもコーヒーが好まれるのは、全国的である。

抹茶飲用推定人口は、約53万人で、それは全人口の0.5%にすぎない。

お茶の生産量の順位は、①鹿児島県、②静岡県、③三重県、④宮崎県、⑤京都府、⑥福岡県となっている。

 

一般的に農産物の産地は、現在ではブレンドされるのが普通になっているが、お茶も例に漏れない傾向にある。そのため、ティスティングやブレンダーの重要性が増している。この工程は、お茶が年間を通じて同じ規格に保つためである。(総務省の飲料データによる)

 

第二章 緑茶、抹茶の栽培、製造プロセス

この章は、時間の関係で割愛されたが、つぼ市製茶本舗では、あら茶を農家から仕入れて加工するのが仕事である。

本来、お茶は茶の木(カメリアシメンセス)からできたものがお茶である。たとえば、ウーロン茶や紅茶などである。麦茶はこのような理由で、本来お茶ではない。

 

抹茶の定義は次章で扱う。

第三章 平安から室町時代 ~日本の喫茶史の変遷~

平安時代

唐から煎茶法が伝わる。湯に茶を入れる(煎じる)

 

鎌倉時代

甜茶法:お茶をたてる。茶に湯を注ぐ。

 末茶(手編がない):茶葉に覆いをかけていない。安価な茶。

 抹茶(手編がある):茶葉に覆いをかけて栽培する。手間がかかる。

 

江戸時代

明から伝わる。淹茶法(エンチャ)、泡茶法

急須に茶を入れる。

 

急須で茶を入れる(淹茶)の始まりは、隠元禅師が京都で始めた頃からである。

茶の歴史

 

最古の茶は、815年、滋賀県の日吉神社で始められた。

 

桃山時代、お茶は甜茶(茶葉)を家で、茶臼で挽いて抹茶にしていただくのが普通であった。茶臼は当時、非常に貴重なもので、京都では、公家や大名など一部の人しか使用されなかった。地名にも「茶臼山」が残っている。

 

 

 

左の写真は、「つぼ市宇治茶製造時代の茶臼」 1655年明暦元年 臼径20.3cm


 

 

 

堺はどこを掘っても、茶臼が出土する。これほど大量に出土するのは、全国でも堺だけで、あとは博多にも少し出土する。

お茶は宗教儀礼で使用され、真言宗や天台宗から伝わったと言われるが、後に禅宗でも用いられた。

 

つぼ市製茶本舗にも、貴重な茶臼が伝わる。

 

 

 

右の写真はその出土例である。

 


第四章 戦国~桃山時代の抹茶と堺の喫茶文化

大徳寺文書によると、1471年安孫子弥次郎(あびこやじろう)が苅田(当時は堺の長居)や、今井宗久などが茶園を所有していたとある。

茶壷は、茶葉を保存する容器であるが、茶葉つぼの名物「九重」の初見は1435年である。当時はルソン助左衛門もルソン茶壷を輸入している。

 

当時の茶壷は、茶一貫1000匁(3.75kg)たとえば、般若つぼの値段は、金子50枚(500両=約2億円)の値が付いた。

 

茶のブランドについて

当初は、栂尾の高山寺の栂尾茶が一級品とされていた。高山寺はかの鳥獣戯画で有名なお寺である。

 

今は、宇治茶が一番で、栂尾茶から宇治茶へと移った。

***宇治茶ブランドの確立***

宇治茶ブランドの確立は堺が貢献した。

 

室町時代から御茶吟味役として、堺商人である武野紹鴎、北向道陳、千利休などが、任じられ

 

た。栂尾の高山寺が相続争いに陥っていた時、堺の商人が活躍機会を得た。

 

これらの人々は、会合衆の塩屋宗悦が上林氏(かんばやしし)に斡旋された。

 

 武野紹鴎とは - コトバンク (kotobank.jp)

**お茶の吟味の基準**

利休は、初期のころは末茶の色を重視していた。157580年頃に、覆い茶の抹茶が出てきた。覆いをしない末茶はカテキンが多い。しかし、覆いをするとカテキンが少なくなり、アミノ酸が多くなるため甘みを増す。

 

覆いをしない末茶はカテキンが多い。ちなみに、しぶい茶はカテキンが多く、口に含みながら飲むと、黴菌が排泄されると言われる。

 

**茶の保管について**

―松花堂(堺の人)の手紙から伺えること―

 

津田宗久は、お茶の保管に関して、京都の岩清水八幡宮や愛宕山へ預けていた。お茶は暑いと酸化しやすいので、冷蔵庫のない時代、涼しい高山に預けていた。

 

―「天王寺屋会記」(天正3年)1575年には、御茶から、濃い茶の記述が見られる。

 

 

上の写真は、出土例である。

真ん中の写真の左は唐物、右は和物(瀬戸)である。

**茶道具について**

堺から出土する茶道具の出土量は、全国の遺跡の中では、圧倒的に多い。しかし、その中でも、茶壷は比較的少なく、茶壷は京都の愛宕山に預けていた。また、堺は陶器の発祥の地なので、湯を沸かす道具は他にもあるため、窯の出土数は少ない。

堺では、一か所に多数の器が出土する。染付や素焼きなどが大量に出土する。これらは、主に、輸入品であった。これらの陶器は、遣明船で堺や博多などに運ばれ、販売された。堺の豪商たちは、これらを販売する利権を持っていた。

 

当時の堺では、舶来物と和物をいっしょに入れて所有していた。これが、利休の真骨頂と言われる。

 

当時の日本では、木製品の器が普通であったが、堺の豪商たちは、このような陶器を普通に所有していた。

**堺の茶の湯**

初期の頃には、茶室は存在せず、広間を屏風で区切って、茶が行われていた。

茶の湯は大名の喫茶文化でもあったが、堺では、町衆の喫茶文化も存在した。

これが、堺の喫茶文化の特徴である。

 

1680年、濃茶が始まった頃に、茶室が建てられる。

 

**茶室**

京都の銀閣寺などは、大きい茶室であるが、今の狭い茶室の原型は、堺の市中の山居で、路地をくぐって奥山寺に入るというような感性で、

 

「樫の葉のもみぢぬからに ちりつもる 奥山寺の道の寂しさ」という一首に、利休の目指した世界や空間の美があらわれている。

 

今の茶道は、季節感を大切にし、練り切り和菓子などで季節を彩る。しかし、利休時代の茶道は全く異なる。

利休の茶室は質素で、あるのは花一輪だけで、五感で十分に季節感を出すという、ほとんど色がない世界(モノトーン)であった。

床の掛け軸には、亡くなった高僧のものをかける。利休時代、中国の禅宗の偉い人の軸をかけることが大切で、現在のように、何度も軸をかけかえない。

利休の茶会は、軸一本と香炉と花入れぐらいで、ほとんどの日は、床には軸は何も掛けていなかった。

それぞれの茶道具は、高度な技術が用いられ、それを鑑賞する地味なものであった。

たとえば、古い茶碗は、茶渋が嵌入して貫乳して行くのを鑑賞したりした。

利休は、茶に対して、地味でストイックで、真面目に追及していた。

茶一筋に他界観を突き詰めた。秀吉が赤の茶碗であったのに対し、利休は黒の楽茶碗で、陰の世界を追求した。利休は秀吉と対立して、切腹している。

 

**急須の使用**

昨今の若い世代の人は、急須なるものを知らない人がいるそうだ。

江戸時代に行われた淹茶は、急須を使ってお茶を飲む文化だ。

堺の少林寺町(SKT57)で、1984年に、桃山時代の備前焼の急須が出土している。昔の急須は、中国のものが多く、後手であるが、この備前焼の急須は横手であり、1点のみである。

小さめの急須のことをキビショと呼ぶが、この名前は中国福建省の横手急須「キプス」から来ると言われる。

また、隠元禅師は、京都で淹茶を始めるが、隠元禅師のお茶は堺から始まっている。

 

**京都の着道楽、堺の建て道楽、大阪の食道楽**

 

堺は建道楽と言われる。かの聚楽第も堺の人が寄進して建てられたと伝わる。堺人は、街並みの多くも寄進して造っている。朝鮮出兵の折にも。その技術が使われた。

 

 

  

 

ちょっといい旅 ー大阪堺市海岸通りー

 

 

昭和30年代には、堺には38館の映画館があった。当時の映画のチケットは、子供35円、大人55円であった。

堺には、東宝や日活などの映画の他にも、中村座などの芝居小屋も数多く存在した。

 

 

当時の堺の港は、関西指折りの貿易港で、外国船が出入りする港であった。

 

**近代の建物**

明治には、内国博覧会が天王寺で開催され、その第二会場として、堺の港に近いところに、水族館、大浴場、遊園地、少女歌劇団などのレジャー施設が建てられ、まわりには多くの旅館が建てられた。料理旅館も数多くあった。

 

たとえば、大浜の潮湯などは、有名な建築家の辰野金吾氏が設計をしたと言われ、現在は河内長野市の天見に移築している。

 

建物・辰野金吾|大阪の温泉旅館 天然ラジウム泉と名物料理の宿 天見温泉 南天苑【公式サイト】 (e-oyu.com)

 

 

一番左の写真は、当時の旅館である。2番目も旅館である。左から3つ目の写真は、左から2番目の旅館のやねがわらである。立派な瓦が使われている。右端は、潮湯と思われる。(はっきりわからない)

 

 

 

明治10年には、大浜公園の灯台が建てられた。外国人が指導して、建物は地元の大工さんが建てたと言われる。

江戸時代、大浜のあたりは大砲の台場であった。明治45年には、大浜公会堂(木造)が建てられた。これは、大正8年に建てられた中之島公会堂のモデルと言われる。

 

堺にはハイカラな洋風建築も多く、そのようなところから建道楽と呼ばれたのであろう。

堺の海岸近くには、大正時代のレンガ造りの火力発電所もある。これは南海電車が所有している。戦時中、軍需工場として使用されたこともあるが、現在は倉庫として使用されている。

 

 

電車の駅のすぐ裏手にも、レンガ造りの建物がある。そこには、港町らしく、製氷所があった。現在は製氷所ではない。港が物資輸送に大いに活躍されていた昔の名残である。

***浜寺公園駅舎***

南海沿線には、数多くの遺産がある。この浜寺公園駅舎は、辰野金吾氏の設計である。

辰野金吾氏は、東京駅の設計をした方であるが、この駅は、それより古い。

 

 

このほかに、難波の2代目の駅舎も辰野金吾氏の設計と伝わる。

hamaderastation

 

 

駅舎は現在、文化財として保存されている。駅舎の柱はエンタシスで、ロシア風である。(エンタシスは法隆寺の柱にも見られる)柴田氏は、このような観点から、日露戦争の大勝利と何か関係があるのかもしれないと述べている。

 

 

南海電車の諏訪ノ森駅舎のステンドグラスは本物で、大正時代に作られた。淡路島と大阪湾の景色をデザインしたステンドグラスである。

 

南海電車 ステンドグラス - Google 検索

 

堺では、辰野金吾氏の他にも、同じ町で生まれた建築家丹下健三を輩出している。(参考:配布資料)

 

 

他に、堺は戦後すぐに総理大臣、鈴木寛太郎氏も輩出している。鈴木氏は陣屋の近くの家で生まれた。

 

右の写真は

柴田先生が、後日、北野田のライフにて、丹下健三氏の展示が開催されるので、ご覧になってくださいといわれました。その展示物の写真です。


 

**水車**

 

昭和30年代の堺には、多くの水車が見られた。水車は水を汲み上げるものとして使われた。

別の府民カレッジの授業で、堺の海岸近くの砂地に水車で水を汲み上げて、堺名産の三つ葉が栽培されていたと習った。

 

このあたりは、埋め立て地であり、砂地が多かったのだろう。今は、昔の風情はすっかりなくなり、ポツンと一つ淋しく水車が残っている所がある。